喪われた映画の理想郷をもとめて。
こんにちは!ナカトシです!
前回は映画の理想郷に向かっていこう!というお話でした。
この世の中には映画を純粋に愛している、しかも潜在意識としてそれを仕事にしたいという方は結構な割合でいると思うんですよね。
今の映像産業という枠組みではなくて、例えば、かつての撮影所システムのような理想郷を求めている方は一定数いると思います。
私は17歳の時に黒澤明監督『七人の侍(1954年)』と出逢ってより、映画と生きることに決めました。
しかし、その特殊な夢、というか覚悟のために試行錯誤の展開を余儀なくされました。
映画を作りたいのならば、いつでも映画を作ればよかったのですが。
なんせ、その夢とは
「新しい日本映画産業を創造すること」
という一個人で実現できるようなものではなかったので^^
迷走することになるのでした。
とにかくなぜ私が一見途方もない夢を描くようになったのか聞いてくださいね。
『七人の侍』をはじめとして、かつての日本映画は豪華絢爛たる圧倒的な世界でした。
『羅生門(1950年)』『東京物語(1953年)』『浮雲(1955年)』『生きる(1952年)』『雨月物語(1953年)』など、世界一級の作品群です。
ハリウッドと比肩しても負けないものだったのです。
それがどうでしょう、現在はアカデミー賞をとることがさも素晴らしいかのような報道があったりします。
私は根っからのドメスティックな人間なんですよね^^
なんか違うと思うのです。
同じ土俵で乗ることを喜ぶのではなく、敵地やと思って他流試合を打ち勝ってやろう的な^^
芸術であろうと、いや芸術であるからこそそのくらいの気概がないとダメだと思うのです。
だからこそ、かつての傑作群は血脈が通っていたのだと思うのです。
そんな日本映画に奇跡をもたらした日本映画産業は1971年大映と日活が相次いで倒産し、
それをきっかけにして日本映画界は「斜陽」の時代を迎えることになったのです。
これを境にして日本映画界はスタジオ(撮影所)システムをなくして制作などを外部でやることになるのです。
しかしスタジオ(撮影所)システムこそ日本映画の魂、根幹だったのです。
このシステムこそスターや俳優、優れた監督やスタッフを養成する仕組みだったのです。
これこそが今でいうブランドであり、コミュニティだったのです。
その後、日本映画の最後の輝きが「角川映画」です。
天才角川春樹さんが生み出した、日本映画の良き時代でした。
今から思えばあの時代は至高の映画界だったと思います。
映画に熱狂できた時代。
「銀幕最後の」女優薬師丸ひろ子さんのオーラこそ映画女優でした。
角川映画の広報誌「バラエティ」を若者たちは待ち望んだものでした。(←私です笑)
そこには最良のコミュニティがあったのです。
それも1990年に角川春樹さんが角川書店から「撤退」して全ては終わりました。
もちろんその後の日本映画にはいい作品も多いと思います。
それは日本人はもともと映画的感性に恵まれているから当然です。
日本語はよく右脳的な言語と言われます。対して西洋語は理性的。
又、よく映画とドラマの違いとか言われます。
私的に言えば、全然別個のものだという認識なんです。
デジタルコンテンツとして現在は映画も配信されていて違いがよくわからないのかもしれません。
しかし、映画とは一個の作品だけというのではありません。
映画とは「コミュニティ」なんです。
例えば、薬師丸ひろ子さん主演『セーラー服と機関銃(1981年)』はいろんなバックボーンがあるからこそ、あの時代で社会現象を巻き起こしたのです。
でも現在の映画は特に配信で見る作品はそれがない。
もちろん宣伝はある。でもそれだけでしょう。
角川春樹さんは一つの「角川ワールド」を作り上げていたのですよね。
これはかつての日本映画界の大映、日活、東宝、東映、松竹の5社も同じようなものだったのです。
そこにはブランドがあり、コミュニティがあった。
「健さんの映画を見ること」がステイタスであった時代だったのです。
高倉健さんというスターに群がるコミュニティ。
そうした視点から見れば、現在の日本映画はブツ切れ状態です。
もちろん例えば「何々組」は存在しているのだと思います。
が、「組」は制作母体であってそれ以上のものではないでしょう。
要するに「大衆(←これは死語ですね^^)」をいかに巻き込むことができるのかということです。
それがスタジオ(撮影所)システムの意義だったと思います。
なので、日本映画を「再興」しようと考えるならばこのシステムを復活させることが先決となるのです。
よく同時代を共有するとは言いますが、そんな感覚です。
私は『七人の侍』に熱狂しましたが、同時代で共有できていればさらに感動は大きかったと思います。
映画とはこの同時代感覚があると。
というより、あらゆる芸術はこの感覚を抜きにしては語れないとさえ思います。
言い換えるならライブ感。
新型コロナで「巣篭もり」など新しい生活様式が語られていますが、映画配信は確かに伸びはしました。
しかし映画興行そのものがなくなるわけではありません。
とはいうものの映画を含めた芸術はさらなる進化を遂げるのは確実ですね。
私は自分の人生こそ映画だと思っています。
一個の作品を作るのと同じで、自分の人生を創造していく。
そうして「しねとぴあ」の住人も共同で自分たちの世界を創造していくんです。
この作業は永遠に続いていくのです、あの「サグラダファミリア」のように。
私の人生の「始まり」はひとつの挫折から始まりました。
小学高学年の目標は阪神間に住んでいたこともあり、「灘中」にいくことでした。
当時は灘から京大へ、そうして天文学者になりたかったんですね。
しかし受験に失敗して、勉強をしない子、無気力な子供になってしまいます。
今から思えばまだまだ人生は長いんだからいつでも軌道修正すればよかったんですけれどね。
でも当時はそんなことも考えられずに落第寸前にまでなりました。
それを救ってくれたのが『七人の侍』だったのです。
だからこの映画は私にとっても「恩人」みたいなものです。そうです、黒澤明監督は私の恩人なんです。
おそらく黒澤明という人は日本映画の行く末を誰よりも案じていた一人だったと思います。
私、ナカトシは、1991年の京都に出来た映画塾(今の立命館大学の映像学部のあるところ)の門をくぐるのです。
この時の経験がなかったら、もしかしたら今の情熱はなかったかもしれません。
映画塾のご縁で、松竹のさるお方にご紹介していただき、映画館の営業担当に従事しました。
その後結局、10年間映画興行に携わりました。
私、ナカトシは映画館オタクです。笑
私にとって、黒澤明監督の『羅生門』の感動は今は亡き新世界東宝敷島という、もぎりのおばちゃんがタバコを吹かしながら対応し、日雇い労働者たちがいた、ある種異様な空気感、あのザラザラとしたスクリーンでなければ体験できなかったものでした。
唯一無二の映画体験。
映画館の力はものすごいものだったのです!
画一的な様式のシネコンではそのようなパワーは生み出せません。
ナカトシは作品としての映画はもちろんとして、その背景にある、歴史づくりをしたいわけなのです。
映画の歴史づくりを。
一度は滅んだかもしれない撮影所システムという理想郷を、現代にかなったシステムに置き換えてみたい。
それが私が17歳の時に抱いた夢でした。
当時としては荒唐無稽な夢だったかもしれません。
しかし、それから40年が経過して、一番のチャンスが到来しているのです。
新しい映画システムができるインフラが全て出てきているのです。
やらないわけにはいけません!
映画業界にはとても才能があるのに不遇な人たちがいます。それもこのシステムが古いのです。
大好きな映画に没頭できる環境を作りたい。
それが私の夢の原動力です。
この古いシステムが日本映画の枷(かせ)になっているのではないか。
そのように思います。
日本のアニメは世界に衝撃を与え続けています。
でもそのクリエーターたちの環境はどうでしょうか。
大好きなことをやっているのだからと不遇に甘んじてはないでしょうか。
かつて世界を席巻した日本映画を再興するとは、スタジオ(撮影所)システムをアップグレードするということです。
日本映画をクリエーターの手に取り戻させる試みです。
やはり大事なことは「ひと」なんですよね。
喪われた映画の理想郷をもとめて。
映画が好きで好きでたまらない、死ぬまで映画三昧、しかも映画制作に携わって生きていきたい、という、今どき珍しい方はこちらをどうぞ!
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